浦添 – 安波茶橋と石畳道

浦添市 安波茶橋と石畳道

浦添市 安波茶橋へのサインボード

浦添市「安波茶橋と石畳道」。1597年、尚寧王(しょうねいおう)によって整備された安波茶橋は、経塚と安波茶の谷間を流れる小湾川(こわんがわ)に掛けられた南橋と支流のアブチ側に掛けられた北橋の二つを指している。南橋は沖縄戦で破壊され、北橋も崩壊してしまったが、1998年に修復された。現在では琉球石灰岩で築かれたその美しいアーチは小川とたくさんの緑に包まれ憩いの空間を醸し出している。また先述の石畳と合わせ「中頭方西海道 安波茶橋と石畳道」として国指定史跡にもなっている。


 

安波茶橋と石畳道

浦添市 安波茶橋(あはちゃばし)と石畳道

畳石道に沿って道を降っていくと、フワッとこの風景が広がった。

周辺の緑と相まってめっちゃ綺麗。

…やっぱみんな写真撮るよね。

 

浦添市 安波茶橋(あはちゃばし)と石畳道

安波茶橋って短いんだけど重厚な作りなんだね。

 

再び嘉数先生の安波茶橋にまつわる説明が始まる。

 

琉球国王はこの橋を通って琉球八社の一つ普天間宮に参拝しに行っていた。

「井泉赤皿ガー(湧き水)」が近くにあり、国王もその水を飲んだ。

この石畳のような幹線道路を宿道と呼んだ。

安波茶橋は2014年、浦添八景に選ばれた。

 

といった話を聞いた。

 

浦添市 安波茶橋(あはちゃばし)と石畳道


ちなみに「浦添八景」って何?って思ったので調べてみました。

・浦添グスク
・浦添ようどれ
・為朝岩(ワカリジー)
・当山の石畳=宿道「普天間参詣道」
・伊祖グスク
・亀瀬(カーミージー)
・杜の美術館=浦添市美術館
・安波茶橋=宿道「中頭方西海道」

を指すようです。

 

浦添市 安波茶橋(あはちゃばし)の下を流れる川

安波茶橋の上から生い茂った木々の間、下の方を見てみると「小湾川」が流れている。

 

浦添市 安波茶橋(あはちゃばし)の下を流れる川

ワンチャン、ジャンプしたら安波茶橋なくても渡れるんじゃん?

と思ったけど、確かにこの幅、この高低差は安波茶橋がないと渡れないわ~。

 

浦添市 安波茶橋(あはちゃばし)と石畳道

琉球らしいというか、おそらく元あった地形に対し素直に石畳や安波茶橋を作ったのだろう。道が曲がり上下している。…でも、こういったのが沖縄らしいと感じるんだよね。

 

浦添市「安波茶橋と石畳道」の解説ボード

浦添市教育委員会の設置した「安波茶橋と石畳道」の解説ボード。

 

幹線道路を整備するという大事業を成した「琉球王国 第二尚氏王統 第7代国王 尚寧王」は、ちょっと変わった経歴の持ち主で、首里尚家の正統の生まれではなく、分家に当たる浦添按司家の出身だそうです。

首里尚家の第6代国王・尚永王に男児が生まれなかったため、娘婿である尚寧が第7代国王として即位する事になったようです。

例えれば徳川吉宗が紀州藩第5代藩主だったところ第7代将軍 徳川家継が嫡男を残さず亡くなったため宗家の血が途絶え、吉宗が江戸幕府第8代将軍として迎えられたのと同じような状況です。

尚寧王は実家である浦添グスク首里城の行き来をよくするために、安波茶橋の他に平良川に太平橋という石橋も築いています。

これにより首里と浦添の交通の便は格段に良くなり、もちろん浦添にとって経済的効果もあったようで、これは尚寧王が琉球国王になっても浦添の事は忘れなかった事の表れとの事です。

おまけに付け加えれば、尚寧王は豊臣秀吉や徳川家康の要求に抗い戦争に負け、敗戦国の君主として薩摩、駿府、江戸へと連れていかれて、徳川家康や二代将軍 徳川秀忠にも謁見したという経歴の持ち主。約2年半後に琉球に戻っていますが、かなり数奇な人生を歩んでますよね…。

尚寧王は死後、世界遺産にもなっている琉球王家の墓「玉陵(たまうどぅん)」に入るのではなく、実家浦添の「浦添ようどれの東室」に入っています。

 

浦添市 安波茶橋の石畳道の階段

安波茶橋を後にして、この石階段を登っていく…。

 

浦添市 安波茶橋と石畳道

なるほどこっちから見ると谷だったんだって感じる。この石畳と安波茶橋がない時の姿を想像したら、

「よくもこんなところに橋掛けて道を作ろうと思ったな…。」

と思う。

 

「歴史の道 中頭方西海道」の道標

石階段を登り切り、しばらくなだらかな坂を進んだら…県道153号線、経塚通り。

緑に囲まれた安波茶橋と石畳にひたり琉球時代にタイムスリップしていたのに急に現代に戻された。

 

浦添市 安波茶橋(沖縄)