シドニーのジャパレスで働く
キングスクロス「南半球一大きな看板」。シドニーのジャパレスで働きだすとだんだん仕事仲間とつるむようになってくる。ジャパレスなのでオーナーも日本人、スタッフもほぼ日本人。こじんまりしていたが結構人気の店らしく毎日忙しかった。僕自身はフランス料理とポリネシアン料理は経験していたが、日本食の経験はなかったのでこの店で日本食の料理を教えてもらった。オーナーはフロントのカウンターキッチンで手を動かしながらオージー客の話相手に張り付くので、僕たちはバックキッチンにいてオーナーの指示で動く形だった。
1986/07/29、キングス・クロス駅近く、夜のウィリアム・ストリート。ダーリンハースト・ロード(Darlinghurst rd.)の橋からの景色。
早速ジャパレスのメンズと深夜徘徊。
シドニーのジャパレスの仲間達はオーストラリアにサーフィンをしにきていた。 僕はサーフィンについてはほとんど知識がなかったが彼らから
「サーファーはプロでも世界大会の賞金が100万円とかでそれだけで喰っていける人はほとんどいない。」
とか
「サーフ・ショップ出してやっていくんだよ。」
とかいろいろ教えてもらった。
「スヌーカー」というイギリス人が好むビリヤードのゲームを教えてもらった。
オーストラリアは元々イギリス連邦の国なので「スヌーカー」の台が置いてある店が多かった。
日本で一般的な「ナインボール」やアメリカで人気の「エイト・ボール」も含めてビリヤードはこの後数年間はまった。 賭けビリヤードもやるようになり、ここで鍛えたビリヤードの腕は後々 パース(Perth)や ユーゴスラビア(Yugoslavia)でも役に立った。
夜のボンダイ・ビーチ
ジャパレスで仕事を初めてひと月くらい経った頃「うちのフラットくる?」って話になり、 シドニーのダウンタウンの東側にある夜のボンダイ・ビーチ(Bondi Beach)に。
ボンダイ・ビーチはシドニーのサーフィンのメッカだが行くのは初めてで 彼らのフラットにはサーフボードをはじめサーフィンの道具で溢れかえっていた。
まさに「サーフィンをするためにオーストラリアに来ました」といった感じだった。
僕らは深夜のボンダイ・ビーチを徘徊しいろいろな話をした。
落書きがアート。
キングス・クロスでのありえない偶然の出会い
キングス・クロス(Kings Cross)に通うようになったある日、キンクロ(キングス・クロス)で 日本人の集団を発見した。
「えっ。。。。。」
日本を遠く離れたオーストラリア・シドニーで…
航空自衛隊でパイロットをやっているはずの「実の兄貴」を発見した。
「なにやってんの? なんでオーストラリアいるの?」
Tenちゃん(実兄のあだ名)との話しは盛り上がらなかったが、 Tenちゃんの連れにいじられる。
「おー、なんだ、お前Tenの弟か?なら俺の後輩か、うちに遊びに来い!」
え、生徒隊の先輩!? …もう…ガサツな人だな…。
こっから僕のシドニー・ライフはこの人たちのペースになっていく…。