那覇 – ペリー提督上陸記念碑

那覇 ペリー提督上陸記念碑

那覇市 泊 ペリー提督上陸記念碑

那覇市の離島への船の窓口「とまりん」の北岸にある「泊ふ頭北岸船客待合所」の道向かいに「ペリー提督上陸記念碑」がある。マシュー・ペリー提督と言えば一般的には4隻の軍艦・黒船を引き連れて1853年7月8日、神奈川県横須賀市の浦賀に姿を現し、江戸幕府に開国をせまり、翌年の「日米和親条約締結」を約束して帰った事で知られる。でもその俗に言う「黒船浦賀来航」の途上で琉球王国に立ち寄り、1853年5月26日に那覇港に入港し、6月6日には強引に首里城を訪問している事はあまり知られていないかもしれません。翌年、琉球王国とアメリカ合衆国は「琉米修好条約」を結ぶ事になるのですが、ペリーは合計5回も琉球王国を訪れ、琉球各地の調査もしていたようです。


 

那覇市 泊 ペリー提督上陸記念碑「泊外人墓地」

「とまりん」の北岸「泊ふ頭北岸船客待合所」の通りの向こうに「泊外人墓地」と呼ばれる西洋風の墓地があり、

 

那覇市 泊 ペリー提督上陸記念碑

正面のゲートをくぐるとその先には「ペリー提督上陸記念碑」。

 

那覇市 泊 ペリー提督上陸記念碑

那覇市観光資源データベース」によると入場無料。

ちょっと入りにくい感があるんだけど、正面の門の閂を外して墓地内を見学している人も見た事があるので、きっと大丈夫なんでしょう。

 

記念碑の台座には、1853年6月6日に琉球王国の首里城に入城した事が刻まれている。

 

泊外国人墓地の碑文

”泊外国人墓地

那覇市指定文化財 史跡 指定1987(昭和62)年8ガス10日

 ここは古くから22基の外国人の墓があったので「ウランダー墓」などと呼ばれていた。その内訳は、中国人(清人)6人、アメリカ人10人、イギリス人2人、フランス人・スェーデン人各1人、不明2人となっている。このうち最も古いのは、中国人(漂流民)のもので墓碑から1718年~1785年の年号が読み取れる。
 その後、欧米船の来航があいつぎ、1853年~1854年にかけて5度来航したペリー提督の従者や、1908年当時沖縄県立中学校の英語教師ヘンリー・アモアなど、この地で亡くなった外国人が葬られている。なかでも英国の水兵ウィリアム・ヘアーズの葬儀には、泊住民が惜しみなく協力した。それ故この地は、18世紀以降の沖縄の歴史とその人類愛を地上に印す記念すべき場所である。
 なお、この墓地は現在も利用されており、主に米国人が葬られている。その数300余基にのぼる。”

 

那覇市 泊 ペリー提督上陸記念碑

墓地の向こう側は泊高校。その泊高校の向こうには琉球八社の天久宮

 

那覇市 泊 ペリー提督上陸記念碑「ウランダー墓」

「ウランダー墓」と呼ばれる外人墓地は元々はアメリカ人、中国人、イギリス人、フランス人、スウェーデン人、計22人の墓地だったようだが、現在ではベトナム戦争で亡くなったアメリカ人を中心に300墓ほどあるようだ。

ベトナム戦争は1955年~ 1975年まで続く長い戦争で、1965年頃からアメリカは本格的に軍事介入していったのだが、沖縄の嘉手納基地がその戦争における中心的な基地だった事もあり、アメリカ本国ではなく沖縄に埋葬する事を希望した兵士がいたためのようだ。

 

那覇市 泊 ペリー提督上陸記念碑

那覇市観光資源データベース」によると、

文化財(市指定史跡)史跡指定年月日;昭和62年8月10日
墓地入り口より右手奥の方が古い外国人墓(俗称ウランダ墓)で、中国人、アメリカ人をはじめ、6ヶ国の計22名が葬られている。この墓地で最も古いのは1718年に埋葬された中国人。長い航海で病死したイギリス人水兵や、ペリー提督の船に同乗していた水兵、カトリック宣教師マシュー・アドネ神父も埋葬されている。

とある。

 

ペリー提督上陸記念碑(那覇市泊)