香港 – 九龍 赤松黄大仙祠

2021-08-06

香港 九龍 赤松黄大仙祠

香港 九龍エリア

香港島から中国大陸、九龍エリアに入ると だんだん雰囲気が中国色を色濃くしていく。元々中国の領土だったが、 香港島に続き1860年北京条約によって九龍半島の界限街以南もイギリスの植民地となり、1898年深圳河以南もイギリスの植民地となり最終的な香港の形になった。 (後の1997年7月1日全て中国に返還されている。)



香港 九龍「赤松黄大仙祠/嗇色園黄大仙祠/黄大仙祠」

九龍の山側にある「赤松黄大仙祠/嗇色園黄大仙祠/黄大仙祠」。

香港島が高層ビルとがひしめく大都会だったのに対し、九龍は少し様子が異なる。

お寺があちこちにあり、露天販売の人々や露店マーケットがそこここに立つ。

1987年現在、ここはイギリス領となっているが、 香港島(1843年~1997年7月1日)に17年遅れてイギリス領になったもので、九龍(1860年~)は先にイギリス領となった香港島の様には急激な開発が進まなかったのかもしれない。

 

香港 九龍「赤松黄大仙祠/嗇色園黄大仙祠/黄大仙祠」

赤松黄大仙祠は「道教、仏教、儒教」が習合するお寺で、本尊は「黄初平、観世音菩薩、孔子」。

 

香港 九龍「赤松黄大仙祠/嗇色園黄大仙祠/黄大仙祠」

香港 九龍「赤松黄大仙祠/嗇色園黄大仙祠/黄大仙祠」

香港 九龍「赤松黄大仙祠/嗇色園黄大仙祠/黄大仙祠」

お寺での人々の動作が気になってしばらくここに釘づけにされた。

まあ、全く予定もないのでいいのだが、 日本のそれとはなんだか全く違う。

 

日本のお寺で見かける日本人は、手を合わせたりもするが、 どこか観光色が強く、見たり読んだりしながら次へ押し進んでいくが、ここではどの中国人も 真剣に何かをお願いしている。

 

無宗教国家日本ではお寺は大多数にとっては観光の対象であり、それはレジャーに分類されるが、 中国ではお寺は信仰の対象であり生活に溶け込んでいるのだろう。

 

香港 九龍「赤松黄大仙祠/嗇色園黄大仙祠/黄大仙祠」

香港 九龍 屋台

香港 九龍 小さな滝

九龍 尖沙咀付近の現在の宿泊施設情報



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香港 1987年3月の夜の九龍のストリートビュー

香港で数日を過ごし、そろそろ次の目的地、日本に戻る事にした。 日本で少しくつろいだら次はイギリスに出発だ…。

 

香港 九龍 1987年3月の啓徳空港

1987年3月頃の啓徳空港(啟德機場)。

香港国際空港とイギリス空軍の軍民共用飛行場。

後日談だが、この香港啓徳空港は、新しい香港国際空港(チェクラップコク国際空港)が離島の赤鱲角に完成したため1998年7月5日午後11時50分発の最終便を飛ばして開港している。

九龍城砦

この啓徳空港と隣接して、世界一の人口密度を誇った無法地帯でありスラム街である「九龍城砦」がこの時期にはまだ存在していた。

僕はこの時この「九龍城砦」の事を知らなかったので、せっかく訪れるチャンスがあったのに見逃している。

「九龍城砦」とは九龍半島の「九龍城地区」にあった居住地の事。イギリス香港政府の管理も、中国の管理も受けない実質無法地帯。取り締まる者がいないので、防火基準も建築基準もなく狭い土地にビルがひしめくように建ち、人口が増えるたびに積み木の様にビルの上に部屋が何層にも積み上げられるため太陽光の一切ささない部屋が一般的であり、住民それぞれが勝手に電気や水道、下水などのインフラを引くためケーブルやパイプが無秩序に通路に放置され、人口密度の高さから電気や水道の供給は不安定で、下水処理、ごみ処理のいい加減さからきわめて不衛生で、警察や行政の力が及ばないことから、麻薬、賭博、売春が公然と行われ、マフィアの拠点ができ、衛生基準を度外視した食品工場ができ、その食品が香港市内に売られていく。

法の力が及ばないため起きる無秩序。

しかし狭くて大人数のコミュニティのため、その連帯感は強く、住民間のトラブルはあまり起きなかったという。

そういう九龍の一角が現在の「尖沙咀」から4km程度しか離れていない場所にあった。

そのスラムは1993年に取り壊されるのだが、香港は1997年に中国に返還されたわけだからイギリス領時代に消滅したことになる。
九龍城砦は中国側の管轄地だがイギリス香港政府管理下の敷地内にあるいわゆる「飛び地」で、1898年に新界地域がイギリスに租借された時に租借条約で九龍城地区だけは「イギリスの香港防衛を妨げない」という条件付きで清国の一部として残したためわずか0.026km2(約200m×120〜150m)のエリアが飛地化した。

元々は1668年に九龍烽火台がおかれた軍事要塞だった。

飛び地化しても当初は清国の役人がいて清国の法に従って統治されていたのだが、祝い事の際の爆竹の音が「イギリスの香港防衛を妨げない」をいう条件に反したということで清国の役人だけが九龍城から追放されたため役人不在の状態になり、また租借条約でイギリス側も九龍城地区を占拠する事やイギリスの法で管理することができなかったため、どの国の管理も及ばない実質上の無法地帯となった。

1912年2月に清国が滅び中華民国に時代が変わっても中国側は九龍城の管轄権を譲らず、イギリス側も中国側の役人の配置を拒んだため無法地帯の状態は改善されず、そのままの状態が続いた。

この頃迄は九龍城に住む人々は役人がいなくても狭いコミュニティの中で一定のルールを作りそれなりに普通に暮らしていたのだが、1927年~1937年に起きた中国国内の「第一次国共内戦」、1946年~1950年に起きた「第二次国共内戦」の戦乱から逃れるために九龍城に流入した難民で人口が増加し始め、1966年から始まった文化大革命から逃れるための難民で爆発的に九龍城の人口が増加、その後も人口増加は続き、1990年初頭にはこの狭い土地に5万人も住んでいたという。

ちなみに1941年12月から1945年8月までの間は香港自体が日本に占領されているが、この間に軍事要塞として作られていた城壁が壊されている。また、1949年10月1日には中華人民共和国が建国している。

1993年から取り壊しが行われ現在は「九龍寨城公園」となっている。

 

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