糸満 – ジョン万ビーチ(大度浜海岸)

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)

糸満市の南側にある大度浜海岸、通称ジョン万ビーチ。「ジョン万次郎」こと「中濱萬次郎」は日本人として初めてアメリカ本土に渡り、帰国後日本人唯一の英日通訳者として幕府に旗本として迎えられ活躍し、日本人に西洋式航海術・造船技術やアメリカ式捕鯨を教え、日本の開国にあたり遣米使節団の1人として勝海舟らと共に臨海丸に乗って再びアメリカに渡り、開成学校(現東京大学)の英語教授となり日本での英語教育に努めた人物。1851年2月2日、ハワイに残っていた2人の仲間と共に当時薩摩藩干渉下にあった琉球王国のこの大度海岸に上陸した。その後薩摩藩に護送され土佐に帰国を果たしている。


 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)駐車場

那覇空港方面から糸満市街地を通り抜け、国道331号線を知念方向に東進すると白い「大度浜海岸」「ジョン万次郎上陸の地」と書かれた交通サインが目に入る。

そこを右に曲がると民家と畑とビニールハウスがしばらく続き、突き当たった所から左に曲がって進めば右手に海が開ける。そこが大度海岸・ジョン万ビーチ。

 

本部の「ゴリラチョップ」や恩納村の「希望が丘ビーチ」と同じく無料で監視員などのいないいちゃんだビーチ。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)ビーチ全景

20台余り停められる無料駐車場と東屋、自動販売機もある。

夏場だと東屋の向かいの小屋でシュノーケルの三点セットやビーチチェアなどのレンタルもしている。

 

白砂のビーチを少し奥に行き、海の色が深い青になっているあたりが有名なダイビング及びシュノーケリングポイント。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)ビーチに降りるスロープ

ビーチ入口の看板の横にスロープがありビーチに降りることができる。

 

イノー観察

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)イノー観察

東屋の正面あたりの海は浅瀬の岩場の海で、干潮時は潮が引き「イノー観察」をすることができる。

美ら海水族館にある「イノーの生き物たち」のコーナーのリアル版。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)イノー観察

イノーを歩いて、主に見かけるのは「黒いナマコ」、ヤドカリ、引き潮で潮溜まりに取り残された小魚たち、カニ、など。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)イノー観察

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)天然記念物「オカヤドカリ」

天然記念物「オカヤドカリ」。

沖縄が日本に返還される前の日本では希少性があり減少傾向が確認されていたため天然記念物に指定された。

沖縄にはたくさんいるので希少性はないうえ、いい釣り餌だったので身近な生き物なんだけど、本土復帰後は日本の法律が適応されたため「天然記念物だから採っちゃだめよ」という事になった。

採ったり釣り餌にしちゃうと「文化保護法に触れる行為」として罰せられるらしい。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)サーファー

潮が満ちてくるとサーフィンをする人たちが現れるジョン万ビーチ。

…干潮でも奥の方にサーファーいるのね…。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)イノー観察

冒頭では中濱萬次郎の人生の日本に帰国してからをかいつまんで書いたが、この人物、僕が中学校まで過ごした今の高知県、江戸時代の土佐藩の土佐清水市中浜の出身で漁師の家に生まれている。父も子供の時に亡くしていて貧乏であったのは想像に難くない。

もちろん武士ではないので名字の「中濱」は後付けで、土佐に戻って士分に取り立てられた時に出身地にちなんでつけたもの。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)イノー観察

萬次郎の渡米のいきさつとしては、14歳の1841年1月、4人の漁師仲間と共に漁に出た際漂流し、伊豆諸島にある無人島まで流され、同年6月アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、当時日本は鎖国中だったためジョン・ハウランド号は日本に寄港する事ができず、彼ら5人はジョン・ハウランド号と共に行動する事になった。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)

その後の1841年11月20日にジョン・ハウランド号がハワイ王国(まだアメリカ合衆国の自治領ハワイ準州になっていない)に寄港した際に満次郎以外の4人は船を下船していて、萬次郎だけが船員としてジョン・ハウランド号に残る事を希望し1843年5月7日、日本人として初めてアメリカ本土に降り立った日本人となった。…といった感じ。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)

アメリカでの萬次郎はジョン・ハウランド号の船長の元に身を寄せ、英語を学ぶとともに学校に通い「測量、航海術、造船技術」などを学んでいる。

卒業後は捕鯨船の船員となり大西洋、太平洋、インド洋を駆け巡ったり、ゴールドラッシュ真っ盛りのサンフランシスコの金鉱で働いたりしている。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)

男尊女卑で、士農工商の身分制度がはっきりしていて、身分のある侍が道を通る時は道の脇で土下座低頭しなければならない江戸時代に生まれた萬次郎にとって、中国革命の父「孫文」もそうだったと思うけど「民主主義」「男女平等」またそもそも日本には存在しない「人種差別」などはかなり衝撃的だったと思う。

 

糸満市ジョン万ビーチ(大度浜海岸)東屋にて

萬次郎が沖縄の大度海岸に上陸した1851年2月時点でも日本はまだ鎖国中なので、当時の常識だと「死罪」くらい重い罰が待っていたはずだけど、琉球、薩摩、長崎、土佐と取り調べを受けながら帰国したその頃、1853年7月8日タイミングよくペリーが浦賀(横須賀)に来航したため、すぐに幕府に召聘されて直参の旗本の身分を与えられている。

14歳で世界に出て、七つの海を捕鯨をしながら航海し、英語と航海術と造船術で日本に貢献している。

その後もアメリカに行ったり上海に行ったり…。

…憧れの存在だね…。

 

あ、イノー観察終わった?

 

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ジョン万ビーチ/大度浜海岸(糸満市)地図