沖縄から高知帰省
沖縄から高知に一時帰省した。僕個人の出生地は愛媛県松山市梅津寺と父からは聞いているが、育ったのは高知県の現香南市(旧香美郡)で現在も両親と三男はその実家で暮らしている。実家にはオーストラリアのブリスベンに飛ぶ前年に戻ったのが最後なのでかなり長い間実家には帰っていない。タイのバンコクから東京に戻り、約半年後には沖縄に移住していたが、今回は長女の誕生もあり、Mamaもまだ僕の両親に会った事がないという事もあり、ラッキーな事にJALトランスオーシャンが那覇-高知間に直行便を飛ばし始めたという事もあったので一度帰省する事にした。
那覇→高知
那覇空港ビルから直接飛行機に乗るのではなく、バスで飛行機まで移動しタラップを登って乗るパターン。
四国は初めてのMama。
高知空港は僕達が帰郷した8か月後の2003年11月15日に「高知龍馬空港」としてリニューアルオープンするので、旧高知空港を利用するのはこれが最後となった。
香南市の三宝山にある「シャトー三宝」。
三宝山(さんぽうさん)の龍河洞スカイラインと呼ばれる曲がりくねった山道を登っていくとその名の通り洋風のお城。
昔は観覧車やメリーゴーランドなどがある遊園地だったが…、まあ、ずっと前からさびれてたけどね。
山の上にあるので割と遠くから見えて目立つため、気になってる人、知っている人も少なくない。
実は、僕たちが訪れた数日後の3月、ここは閉鎖になり、シャトー三宝には入れなくなったと聞いた。
三宝山からの景色。
高知平野は、香南市、南国市、高知市、土佐市と続くので、晴れていたら土佐市あたりまで見えるかもしれない。
香南市と南国市の市境になっている一級河川「物部川」。
土佐湾に注いでいる。
中学校は高知市内の塩屋崎にある私立土佐中学校に自転車で40~60分かけて通ったのでほぼ毎日この左手の橋を渡った。
通学の途中にあるこの物部川の土手にはよく降りてきた。
…何をしてたのかはあまり覚えてないけど…。
香美市土佐山田駅まで自転車で行き、自転車預り所で自転車を預け、そこから現JR四国の列車で高知駅まで行き、さらにとさでんの路面電車に乗って土佐中学校まで通っていた時期もあるが、土佐山田駅までは坂道のアップダウンが激しい4km、土佐中学校までは平たんな17km、さらに自転車だと学校帰りに好きなところに自由に行けるが電車や列車の乗り継ぎだと時刻表に左右される事もあり、中学2年生からはJRを使う事はほどんどなくなった。
…しかし… 今も昔と同じスタイルで自転車預り所ってあるんだ…。
小さな土佐山田駅から高知駅までJRに乗ってみる。
…まあ、高知駅まで車で迎えに来てもらうんだけどね。
そうそう、高知ではミカンは大きな段ボール単位で買ったりする。
高知県の郷土料理で、おもてなしで出す「皿鉢料理(さわちりょうり)」。
俺(この家の次男坊)は含めず、Mamaと娘ちゃんがゲストか。
安芸市にある「野良時計」。
野良仕事(農作業)をしていてもこの時計の告げる音で時間を知ることができる事からそう呼ばれている。
野良猫の野良ではない。
博物館などではなく、今も個人の住居とのこと。
近くに駐車場もあるが、ここは外から見るだけなんだね。
安芸市には野良時計の他にも、三菱グループの創始者「岩崎弥太郎」の生家や、安芸市立歴史民俗資料館など、いくつかの観光地もあるんだね。
1930年に完全開通した後免~安芸線。
わずか44年後の1974年4月1日には安芸線廃止になっている。
安芸市漁協のそばにある「カリヨン広場」のからくり時計。
三菱グループの創始者「岩崎弥太郎」の生家。
江戸時代の土佐藩は関ヶ原の戦いで西軍について負けた土佐藩主長宗我部盛親が領土没収で改易され最後は処刑され、徳川家康の東軍について戦って勝った山内一豊が土佐の国を与えられ家臣を連れて入国したため、一豊が連れてきた家臣は「上士(じょうし)」、長宗我部氏の家臣だった者たちは「下士(かし)」と身分を分けられた。
上士、下士の中でもさらに身分が細かく分かれ、岩崎家は下士の上の方の「郷士(ごうし)」という身分だったが、弥太郎の曽祖父の代に郷士株を売り払って「地下浪人」という上士・下士の下の、まあ平たく言えば「元々は40年以上侍でしたよ」という名字を名乗る事と帯刀を許されているだけの名誉職みたいな身分になっていて、弥太郎もかなり貧しい暮らしをしていたようだ。
しかし時代というのか、壁に批判文を落書きして投獄され、村を追放された後、上士の最上位・参政家老格の吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、これまた参政家老格の後藤象二郎たちと知り合う事で弥太郎の人生が動き出す。
土佐藩の重役となった後藤象二郎の命令で藩の貿易事業を担当する機会を得たり、後藤が明治新政府の重役となると後藤からの情報で巨額を得たりもしている。
その後三菱は政府の御用達となる事で大きく成長している。
南国市後免と伊野の間を走る路面電車。
アンパンマンの生みの親「やなせたかし」さんの生まれは東京都の豊島区だが、育ちが高知県の香美市香北町なので香美市に「香美市立やなせたかし記念館・アンパンマンミュージアム」がある。
そんな事もあって観光PRとしてアンパンマンが使われるのか、電車はアンパンマン仕様。
高知市内、浦戸の桂浜公園の端っこに建つ「坂本龍馬像」。
桂浜「土佐闘犬センター」。
…大人になって闘犬見たら…、えぐいな…。
沖縄の闘牛も見た事あるけど、やっぱ動物を戦わすのってどうなの。
まあ、文化っちゃー文化なんだけど…。
大量の出血をしたり、恐ろしく怯えてたり…。
後日談だがこの「土佐闘犬センター」2017年5月19日に経営不振で破綻している。
高知市内「帯屋町筋」商店街。
大手筋と並ぶ形で高知城と路面電車の通る国道32号線を結ぶアーケード。
国道32号線、はりまや橋側から入るとそれが「壱番街」。
珊瑚(さんご)のお土産屋さん、婦人服店、靴屋さん、眼鏡屋さん、飲食店、ドラッグストア、書店など、このアーケードも廃れないね。
高知城下の日曜市。
高知城の城下町、高知市追手筋で毎週日曜日に開催される日曜市で、朝6時くらいから昼過ぎの3時くらいまで開催される。江戸時代から300年ほどの歴史があり、現在でも賑わいがあり観光資源になっている。
京都の「錦市場商店街」や沖縄那覇の「国際通り」脇の「牧志公設市場」のように大型GMSによってさびれる事のない地元の台所。
高知城。
関ヶ原の戦い(1600年9月15日)で勝利を収めた徳川家康側の遠江・掛川城城主「山内一豊」は関ケ原での功績を評価され土佐国に加増転封された。
元々土佐を支配していた「長宗我部氏」の旧家臣達の反発に苦労しつつも、一豊は1601年から高知城の築城を開始し、二代目藩主・山内忠義の代の1611年に城を完成させている。
天守閣を持つ城の築城は織田信長が始めたとされていて、しかも江戸時代の1615年、二代将軍 徳川秀忠により発布された武家諸法度により城の新築、増築が禁止されたため、天守閣を持つ城は日本の歴史の中でわずか40年ほどの期間で建てられた城に限られているため非常に少ない。
第二次世界大戦以前は20城ほどの城が天守を持っていたようだが、1945年のアメリカ軍の空爆により、7城の天守が焼失し現在は全国で12城しか天守が残っておらず、それを総称して「現存12天守」とか「現存天守12城」などと呼び、高知城はその一つとなっている。
高知城入場料(2021/02時点)
大人:420円(18歳以上)
その他:18歳未満無料
はりまや橋(播磨屋橋)。
とさでん交通の路面電車が走る国道32号線「はりまや交差点」近くにある。
今は「はりまや橋公園」となっている場所は、以前は「堀川」という川があり、人の往来の為に播磨屋と櫃屋という店が掛けたとされる事から「はりまや橋」と名付けられた。
よさこい節の一説にもある
「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」
のお話は幕末頃に実際にあった「純信とお馬の恋物語」の事を指す。
五台山竹林寺脇坊の住職「純信(37歳)」と鋳掛屋の娘「お馬(17歳)」のお話で当時僧侶は妻を持つ事、つまり結婚を認められていなかったが、2人は恋に落ち、阿波の国(現徳島県)に逃げ駆け落ちをしようとするが、捕まり連れ戻され、純信は高知城下で顔を晒された後、国外追放となる。…といったお話。
帯屋町の並び、中央公園内にある「立志社跡」。
立志社は幕末の志士板垣退助が「民撰議院設立建白書(民選議員議会の要望書)」を左院に提出した後、土佐に戻って立ち上げた政治結社で「全ての人間は生まれながらに自由かつ平等」という思想を持ち、後に自由党となる「国会期成同盟」の中心的役割を果たした。
自由民権運動で知られる板垣退助は実に1919年7月16日まで存命していて「国会開設の祖」として知られる。
香南市野市町にある「坂本龍馬歴史館」。
坂本龍馬は今でこそ日本人なら誰もが知る幕末の志士だけど、元々は世間にはあまり知られていなかったと言われる。
まあ、彼の活動は裏方が多かったのと、直接明治政府樹立にはあまり関与していないので当然だとも思う。
そんな龍馬に最初に焦点を当てたのが小説家・坂崎紫瀾で、1883年(明治16年)地元高知県のローカル新聞で「汗血千里の駒」というタイトルで坂本龍馬を主人公とした小説の連載を行なっている。
坂本龍馬と中岡慎太郎、山田藤吉の3人が近江屋事件で暗殺されたのが1867年12月10日とされているので、龍馬の死後16年で注目している点がすごい。
そして、坂本龍馬を全国的に有名にしたのが1962(昭和37)年6月から全国紙・産経新聞の夕刊で連載された司馬遼太郎の「竜馬がゆく」。
連載が始まったと同時に人気が出て、約4年間も連載が続いている。
…僕個人は坂本龍馬をどう思ってるかというと…。
高知で育って坂本龍馬好きじゃない人ってそういないでしょ。「龍馬がゆく」は全巻読んだしね。
那覇に戻るトランスオーシャン航空機内。
高知県も過疎化の流れにあり、1955年の873,874人をピークに年々人口が減っていて、2003年時点で人口は80万人ほどで毎年の人口減少が続いている。
少しづつ廃れていくもの、再生する物、新しく登場する物がある中で、人口減少の中活気づくものがあればいいなと思おう。
…また来るね。
後日談1:この那覇-高知直行便は長く持たないまま廃線となった。
後日談2:2021/02時点ではついに高知県の人口が70万人を切ってしまっている。