浦添 – 経塚の碑

浦添市 経塚の碑

浦添市「経塚の碑」

浦添市「経塚の碑」。玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)の墓を出て、住宅街を抜け20分ほど北西に徒歩で移動すると「歴史の道 中城方面西街道」の石碑があり、そこで改めて嘉数ひとさ先生のお話が始まった。琉球王朝時代を迎える前の沖縄は「南山、中山、北山」に分かれ三山の王がそれぞれしのぎを削っていて、その各拠点が都市として繁栄していった。そして1129年、南山佐敷の尚巴志が三山統一を果たし、琉球王国が誕生するととそれぞれの都市を結ぶ街道が必要となり、道が整備されていく。江戸時代に東海道に宿場を置き、江戸と京都の間を連絡網を整備したのと同じ事が琉球でも行われていた。


 

歴史の道 中頭方西街道

浦添市「歴史の道 中頭方西街道」

「なかがみほうせいかいどう」と読むそうです。

ここから

・経塚の碑。

・安波茶橋。

・安波茶樋川。

・浦添貝塚。

へと続く石畳が始まります。

 

経塚の碑

浦添市 経塚の碑の説明文

ほんの少し、10メートルほど歩いて初めに見えたのが浦添市の指定文化財になっている「経塚の碑」。

どういう逸話があるかと言うと…

 

昔、経塚の一帯は琉球松が生い茂る寂しい場所で、集落もなく、首里から浦添に通じる道だけしかありませんでした。

その琉球松の森に妖怪が住み着き、通りがかる人々をたぶらかしていました。

尚円王統、尚真王の時代、高野山で修業を積み、琉球に流れ着いた紀州の真言宗知積院の高僧、日秀上人が金剛経を石に写経して土の中に埋め、その上に「金剛嶺」と文字を刻んだ石碑を立て妖怪を封じ込めたと伝えられています。

 

…といったお話。

 

浦添市「経塚の碑」

これが「経塚の碑」。

石碑が実在しているんだから、この石碑の下には「金剛経が写経された石」が本当に埋まってるんでしょうね。

妖怪を封じ込めているのだから、絶対掘り返してほしくないけど…。

こわっ…。

 

歴史の道 中頭方西街道 浦添市

「経塚の碑」のお話を聞いてから、また石畳を先に進みます。

すると「中頭方西街道」の説明文があった。

 

”琉球王府時代(1429~1879)、首里王府からの諸令達た貢租のために使われた宿道の一つで「公事道」とも呼ばれています。中頭方西街道は、首里城を起点に、平良、大名を通り、浦添の沢岻、経塚、安波茶、仲間、牧港を経て読谷に至るルートを指し、北の恩納、国頭方面を繋ぐ主要道路でした。

 1597年建立の「浦添城の前の碑」には、尚寧王の命により首里平良から浦添城までの道を拡張し、平良橋を木橋から石橋に架け替え、道に石畳を敷く国家的大土木工事を実施したと記されています。

 中頭方西街道は、琉球王国の政治・経済の発展に伴い整備されてきた道であり、琉球の歴史・文化・交通を考える上で重要な文化財です。”

 

とある。

 

歴史の道 中頭方西街道 浦添市

嘉数先生の話では、琉球王国時代にこういった街道がいくつか整備され、その途中途中に宿場が置かれ、王府から出る公用の荷物や王令の書簡を宿場から宿場へリレー方式でつなぎ各地に伝達していたそうだ。

日本本土では平安時代の末期頃から「宿」という言葉は使われていた記録があるようだが、本格的に街道が整備されたのは関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が「宿駅伝馬制度(1601)」を定めた以降のようなので、国土のインフラ整備の観点だと琉球王国の方が日本に先んじて着手していたようだ。

 

歴史の道 中頭方西街道 浦添市

歴史の道 中頭方西街道 浦添市

…なるほど、今見られる石畳は後に再整備されたもので、オリジナルの石畳は今の石畳の地下に眠ってるんだね。

 

経塚の碑(浦添市)地図