那覇 首里城(有料区域)
那覇-首里城(有料区域)。首里王朝の「大奥」にあたる「御内原(おうちばら)エリア」は2019年2月1日に公開された。後之御庭(くしのうなー)より奥に当たる場所だ。僕は2019/02以降には首里城の奉神門(ほうしんもん)の内側には入ってないので、結果完成形の首里城は見ていない事になる。現在の復興計画は2022年着工、2026年に正殿の復元を目指すとしている。沖縄戦で日本軍が首里城地下に「第32軍司令部」を構築したため首里城は米軍の攻撃対象となり壊滅的な被害を受けた。戦後の復興計画が動き出したのは終戦28年後の1973 年に「首里城復元期成会」が発足してからで、その復興計画は2019年まで46年間も脈々と続いていた。46年もかけてやっと復元を果たした首里城はわずか9か月で再度焼け落ちた。今度は前と違って「どんな形だったか調査をしながら」という手探りの復興ではないと思うのでは早期に復元されることを祈りたい。
首里城エリアマップ
火災後、2021/01時点のパンフレット。
火災前、2019年2月1日に公開された「大奥」にあたる「御内原(おうちばら)エリア」の繁体字の資料。
一番手前の大きな建物が「首里城正殿(せいでん)」。
首里城(有料地域)御庭(うなー)
奉神門の中央の門で入場券を出すと係の女性に、
「チケットは自分で半券をもぎって箱に入れて下さい。」
と言われたのでその通りにして中に進む。
御庭(うなー)の向こうに本来なら正殿。
右手に薩摩の使者を迎えたと言われる日本風建築様式の「南殿」と「番所」。
左手に北の御殿(にしのうどぅん)、議政殿(ぎせいでん)とも呼ばれていて、中国からの冊封使を迎えたと言われる朱塗りの「北殿」。
…本当に無くなってる。
琉球王国の儀式や行事が行われていた「御庭(うなー)」。
“在りし日の首里城正殿”
奉神門の一部も火事の被害にあったはずだけど、どの辺だったんだろう…。
御内原(おうちばら)
首里城正殿の裏側にあった王族たちの居住空間を「御内原(おうちばら)」と呼び、2019年2月1日から一般公開された。
「女官居室(にょかんきょしつ)」。
”「城人(ぐすくんちゅ)」と呼ばれ、住み込みで国王の身の回りの世話などを行った女官達の居室。”
王女の住まいで、王位継承の際には儀場となる「世誇殿(よほこりでん)」。
世誇殿の奥には「首里城復興展示室」。
首里城火災後、焼け残った「石獅子」や「小龍柱」などを展示している。
首里城復興展示室を出て左手に世界遺産である「正殿遺構(せいでんいこう)」がある。
”遺構とは建物の一部の残された物の事で、土台の石積みから17世紀以前に正殿が度々建て替えられていたことが分かります。”
世誇殿の中では展示イベントを行っていた。
世誇殿を出て「東のアザナ(物見台)」への石畳。
「井戸状貯水遺構」。
”発掘調査などにより雨水を貯留するための施設であったと考えられている。”
「白銀門・寝廟殿跡」。
「寝廟殿(しんびょうでん)」とは国王が亡くなった後、死骸を安置しておく場所のこと。
”「白銀門(はくぎんもん)」は「しろがね御門(うじょう)」とも呼ばれる。
国王の霊柩を安置する「寝廟殿」へ詣でる国王が通る門であると考えられている。”
「寝廟殿(しんびょうでん)」。
御内原(おうちばら)の一番奥にあり、上から見ると正方形の形をしている。
首里城 東のアザナ
…一つ気が付いた。これだけ警備員がいるけど「撮影禁止」の看板がないし、注意もされない…。
そうか、本殿とかが焼けちゃったので「撮影禁止」のお宝とかがなくなっちゃったんだ…。