浦添市 浦添大公園
浦添大公園は県庁所在地「那覇」の隣の浦添市に位置する。いわゆる「田舎」って感じでもない浦添にこんなに広大な公園があったのか…。というか、以前から各スポットスポットは行った事もあり知っていたが、「これ一つの公園なの!」という驚き。長いローラースライダーのある伊祖と浦添城址のある安波茶って結構離れている。調べてみると総面積37.4ヘクタールを誇る広大な公園。ふれあい広場ゾーン、憩いの広場ゾーン、歴史学習ゾーンと3つのゾーンに分かれ、その敷地内に国の重要史跡「浦添城跡」、県の特別重要文化財「浦添ようどれ」、県指定史跡「浦添貝塚」「伊祖の高御墓」などの歴史文化財もある。
浦添間切番所跡
県道に出て道を渡り、浦添中学校校門前にある「浦添間切番所跡」の石碑に。
「間切」とは今でいう市町村、「番所」とは今でいう役場。という事は今で言うとここは「浦添市役所」という事になるんだね。1882年(明治15年)には浦添小学校が敷地内に開校。浦添の学校発祥の地でもある。
なるほどね。
浦添大公園 南エントランス管理事務所
その名の通り浦添大公園を利用する人向けの施設で、無料駐車場(大型バス4台、普通車30台)が準備され、浦添グスクを紹介する展示コーナーもある。史跡浦添城跡や浦添ようどれの有料ガイドも行っている。有料ガイドを頼む場合は要予約:098-874-9345。
休館日は毎週月曜日(ただし、祝日の場合は開館)、年末年始(12月28日~1月3日)。開館時間は9:00~17:00。
…狭い島なんで、結構本島内は行き尽くした感があったけど、今日は知らなかったことだらけ…。
…沖縄のブログ、やるのありだな…。
シーマヌウタキ
ここでまた団体は立ち止まり、嘉数先生のお話が始まる。
沖縄方言の「ウタキ」とは「神が下りてくる場所」なのだが、本土のように御神体とかが必ずあるものではないそうだ。なんならないのが普通で「石(いび)、香炉、御神木」があったりして、ここは御神木があるらしい。
浦添城址マップ
公園自体がなかなか広く、今自分がどこにいるのかわからないので、通り掛けに見かけた浦添城跡マップを写真に収める。
ここにまつわるストーリーは二つあり、一つ目は
・中山王の本拠地。…統一琉球王国尚氏成立の前の「浦添グスク」の話。
尚家琉球王朝、つまり沖縄全体の話ではない。もう一つが、
・前田高地(ハクソー・リッジ)。…沖縄地上戦の激戦地の話。
話が交錯するので、ちゃんと聞いていないと何の話なのかわからなくなる。
年代も同じく前後する。
初めに嘉数先生が中山王国の王統の流れを説明してくれたが、もちろん覚えてられないので整理すると、
英祖王統以前は伝説と考えられ、英祖が各地の「按司(地方豪族の首長)」をまとめだし、察度の時代で中山としてまとまったと考えられている。
つまり、1187年に琉球国中山王になったとされ沖縄で初めての王統を築いたと言われる「舜天」も伝説上の人物と考えられているわけだ。
察度は1372年に初めて明に朝貢し、察度の子 武寧が1383年に「琉球国中山王」の賜印を受けた。
1406年、尚巴志によって武寧が討たれ察度王統は滅ぶが尚巴志は「琉球国中山王の賜印」を引継ぐ形で父尚思紹を琉球国中山王に据えた。
1406年の中山に続き尚巴志は、1416年に北山、1429年に南山を滅ぼし三山統一・琉球王国「第一尚氏王統」と続いていくわけか…。
浦添グスク・ようどれ館
ウォーキングツアーの一行はようどれ館(資料館)に向かい昼食をとる事に。
休憩時間は1時間ほど設定されていたので近場をうろつくと、ようどれ館の敷地内でいくつか石碑を見つけることができた。
なるほど、13~14世紀ごろの集落「仲間後原遺跡(まかなくじばるいせき)」というのが発見されて、調査を終えた後、その敷地にこのようどれ館とその駐車場を建てたんだ。
遺跡って保存しておくもんだと思ってたけど、調査が終わったら埋めちゃったりするんだね。
「浦添市西海岸の石切り場跡(字港川)」
平成22年に港川空寿崎の西側で行った発掘調査で大規模な石切り場跡が確認されたと。
昭和5年の浦添村の県外への輸出品の記録から8位に「粟石(あわいし)」とある事から、石は地域の特産品だったとわかるらしい。
自分でお金出してまで買わなさそうな高級なお弁当。
ま、食べよ。