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首里 – 沖縄県立芸術大学

首里当蔵町 沖縄県立芸術大学

那覇市首里当蔵町にある沖縄県立芸術大学は1986年に設立され「美術工芸学部」「音楽学部」「大学院」があり、芸大に附属する研究所や図書・芸術資料館を有する公立大学。県内では「沖芸」とか「県芸」と呼ばれる事が多い。各年次100名あまりの在学者数で大学全体でも学生数が500人に満たず、約半数は県外出身者で、男女比率も約1:3。他県の芸大もだいたいそうだと思うが、身の回りの沖芸出身者はみんな幼い頃からピアノをやっていたり、絵画の塾に通っていたり、琉球芸能をやっていたりと、ごく一部の選ばれた「芸術英才教育者」の学び舎のイメージが強い。


首里 龍潭通り

首里城からゆいレールの走る環状二号線の鳥堀交差点に向かって「龍潭通り」を進む。

2019年10月31日、首里城が火災により正殿を含む多くの施設を焼失してしまう前は、龍潭通りのこのポイントから龍潭池の向こうに首里城が浮かぶ何とも言えない壮言な絶景があった。

夜になると首里城も龍潭池もライトアップされより神秘的なシーンになっていたが今はもうそれも見られない。


ちなみに以前、琉球歴史研究家・上里隆史先生の講演会を聞いた時に知った事だが、首里城の火災による消失は実は過去に5回もある。

1429年、琉球を統一した尚巴志が琉球王国の居城を首里城(創建年不明)に定めた後、

1回目は1453年、第一尚氏 第5代尚金福王没後の王位継承争いが原因で出火焼失。
2回目は1660年9月、失火により焼失。
3回目は1709年11月20日、失火により正殿、北殿、南殿などが焼失。
4回目は1945年5月27日、沖縄戦で米軍艦の砲撃受け焼失。
そして5回目は直近の2019年10月31日の出火によるもの。

 

龍潭池を超え、ほんの少し進むと…

 

右手にあるコインパーキングの向こうに「沖縄県立芸術大学」が姿を現す。

小さな「当蔵交差点」を右の小道に曲がると沖縄県立芸術大学の施設内に入ることができる。

目立つ看板やゲートとかが無いので通り過ぎがちだが「ローソン沖縄県立芸術大学前店」が右手に目に入ったら、それは既に行き過ぎている。(やっとことがある(-_-;))。

 

大学施設内に入る小道。

通りの左側が第1キャンパス、右側が第2キャンパス。

 

沖縄県立芸術大学 首里当蔵キャンパス

今回は沖縄県立芸術大学の管理棟にある事務局に書類を届け、受け取るために訪問。

10分ほどで所用を済ませる。

 

事務局を出て、沖縄県立芸術大学のキャンパスを見て回る。

 

中庭の右手が「一般教育棟」。

 

右側が「音楽棟」。

音楽表現専攻の学生が声楽や各種楽器、伝統的な琉球芸能を学ぶ教場。

 

「音楽棟」を出て…

 

管理棟の正面、通り向かいには第2キャンパス側の「附属図書・芸術資料館」。

 

附属図書・芸術資料館の地下が駐車場になっている。

 

「図書芸術資料館」と「円覚寺跡」の通路を抜けると…

 

「美術棟」。

 

1階は「石膏像資料室」。

…さすが芸大って感じ。

 

「体育館」の前を通り…

 

突き当りに「奏楽堂」。

客席390席のホール、録音スタジオ、練習場や講義室があり、沖縄県立芸術大学の音楽教育の場となっている。

 

奏楽堂の隣にはグラウンド。

首里城の石垣が目の前に…。

 

龍潭通り側の端っこには「沖芸食堂」。

 

松崎馬場跡

沖縄県立芸術大学敷地、龍潭池と龍潭通りに接するところに「松崎馬場跡」の碑文がある。

 

碑文には…

“首里城から浦添(うらそえ)方面に至る街道の一部及び広場の名称。龍潭(りゅうたん)に突き出した一帯には松が植えられ、そこから松崎と名付けられた。
 1801年に、この地(現沖縄県立芸術大学敷地)に「国学(こくがく)」(琉球王国の最高学府)が置かれた際、松崎前の条路に木々が植えられ、この一帯が整備された。中国から冊封使(さっぷうし)が来琉した際には、この地で「重陽宴(ちょうようえん)」が開かれ、爬龍船競漕(はりゅうせんきょうそう)見物のため桟敷席(さじきせき)が設けられた。
 1989年(平成元)に「国学」及び「首里孔子廟(こうしびょう)」(1837年設置)の石垣が確認され、県の指定文化財(史跡)となった。”

と刻まれている。

 

沖縄県立芸術大学は首里城に隣接しているため、他にも「首里市庁跡」や「貝摺奉行所跡」などの史跡が施設内にある。

 

沖縄県立芸術大学(首里当蔵町) 地図

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