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那覇 – 奥武山公園内 沖縄県護国神社

奥武山公園内 沖縄県護国神社

沖縄県出身者や沖縄に縁のある人物で、国家のために殉難(戦死や殉職)した人の英霊を神(祭神)として祀る「沖縄県護国神社」。国内唯一地上戦があり、「鉄血勤皇隊」、「護郷隊」、「ひめゆり学徒隊」、「白梅学徒隊」など少年少女までも戦争に巻き込み、まさに老若男女総力戦となり、人口59万人の島で18万人以上が犠牲になった沖縄。護国神社の御祭神(しゅさいじん)の数は17万を超える。境内には平和を願う碑や像が建立されている。


奥武山公園のセルラースタジアムに隣接する第二駐車場の奥側に車を停め、テニス場を左手に見ながら進み、右斜め前に弓道場が見えたらテニス場に沿って左折する。

右手に林、左手にテニスコートを見ながら進み、道が二股に分かれているので、そこは右へと進む。

左手には幼児用の遊具の公園、左手に「沖縄県護国神社」と書かれた建物を見ながら緩やかに右にカーブする道を進み「修景池」と呼ばれる池が目の前に見え、カーブを曲がり切ったら右手に護国神社が見える。

弓道場の前を左折せずにまっすぐ行くと沖宮(おきのぐう)、そして水泳プールへと続く。

 

沖縄県護国神社 参道

護国神社とは何かと言えば、ちょっとまとめにくいので箇条書きにすると…

護国神社は「国家の為に殉難した人の英霊を祀る神社」で各地域の戦死者、自衛官、警察官、消防士等の公務殉職者などの御英霊を主祭神として祀る。

「祭神」とはその神社に祀られている神様の事を指すが、護国神社では「戦死者、公務殉職者等」を主祭神としている。つまり波上宮のような普通の神社とは違い「国の為に殉職した者」を神として祀るのでその数は年々増えていく。もちろん「神社本庁」には属さない京都の「伏見稲荷大社」などとも一線をかくす。

元々は「招魂社」と呼ばれ日本各地にあったが、1939年に呼称が「護国神社」に改められた。

「招魂社」は高杉晋作が下関戦争の戦没者の霊を慰めるために建立を提唱した事に由来する。

指定護国神社は1府県1社を原則として指定されたが、広域の北海道は3社、岐阜県・兵庫県・島根県・広島県は2社が指定された。

東京と神奈川には護国神社はなく、靖国神社がその役割を果たしている。

 

”沖縄県護国神社の由緒

 当神社は、昭和十一年に招魂社として創建され昭和十四年に護国神社と改称され、昭和十五年七月に内務大臣指定護国神社となり、県社相当の社格を与えられました。日清日露戦争以降、先の大戦までの国難に殉ぜられた沖縄県出身の軍人、軍属をはじめ、沖縄戦にて散華された一般住民並びに本土出身の御英霊を祀る神社です。

 昭和十五年、那霸市による皇紀二千六百年を祝う筆頭事業として護国神社の社殿・施設の拡充が計画され、昭和十六年九月本殿改修工事が終了し、同時に拝殿、神饌所等も建立されました。

 しかし、昭和二十年の沖縄戦により神社も戦災を被り、戦後は本殿ほか一部の施設のみを残す状態でした。その後境内地は学校用地として一時供用されましたが、沖縄戦での戦没者をお祀りしようとの声が県内各地から起こり、県市町村会の支援のもとに募金活動が行われ、昭和三十四年四月に仮社殿を建立し戦後第一回春季例大祭を斎行しました。同年十一月に靖国神社より沖縄戦にて散華された全国の御英霊の御代を奉移し、同神社権宮司池田良八氏を斎主に第一回秋季例大祭を斎行しました。

 昭和四十年十月、社団法人沖城県護国神社復興期成会(会長具志堅宗精氏)の尽力により、現在の本殿、拝殿が竣功し、十一月に天皇陸下から幣帛を賜り、遷座祭並びに奉祝祭を斎行しました。

 昭和四十七年五月の沖縄本土復帰を機に県へ宗教法人認証申請の結果、昭和四十八年十二月十八日宗教法人沖縄県護国神社として認証されました。

 その後県民の神社として崇敬を集め、多方面からの奉賛を載き念願であった祈願控室、大中会議室等を擁する新社務所を平成二十二年十二月に完功しました。

 主な祭典として、春季(四月二十三日)、秋季(十月二十三日)例大祭の他、六月二十三日の沖縄全戦没者慰祭、八月十五日のみたま祭りをはじめ、毎月一日、二十三日に月次祭を斎行しています。”

 

招魂社(しょうこんしゃ)…国家の為に殉難した犠牲者を奉祀した神社、1939年に護国神社と改称された。

神饌(しんせん)…神社や神棚に供える供物のこと。 御饌(みけ)あるいは御贄(みにえ)とも呼ぶ。

幣帛(へいはく)…神道の祭祀において神に奉献する神饌以外の物の総称。

 

「一ノ鳥居」。

 

「二ノ鳥居」の手前の境内の広場。

 

「平和の像」。

「慰霊顕彰」「恒久平和」「共存友好」の石碑。

沖縄県遺族連合会により建立された。

 

手水舎(ちょうずや)。

手や口をすすぎ清める場所。

 

「傷痍軍人夫妻像」。

傷痍軍人(しょういぐんじん)とは戦争で怪我を負った軍人の事。

「沖縄県傷痍軍人会」と「沖縄県傷痍軍人妻の会」による恒久平和の渇望の証として銅像を建てたとある。

 

「針の碑」。

お裁縫の針の事。

針供養祭は歳時として、毎年2月8日、または12月8日に行われていると刻まれている。

 

2つ目の手水舎(ちょうずや)。

 

社務所とガジュマルの樹。

 

「上皇上皇后両陛下歌碑」。

平成天皇のご即位20周年と天皇皇后両陛下ご結婚50周年を記念して建立された歌碑。

天皇陛下「弥勒世よ願いて 揃りたる人たと、戦場の跡に 松よ植ゑたん」。

皇后陛下「鹿子じもの ただ一人子を 捧げしと、護国神社に 語る母はも」。

 

社務所の授与所。

 

沖縄県護国神社 本堂

拝殿。拝殿の後ろには本殿。

 

拝殿の右手に「古札納所」。

 

礼拝を済ませる。

 

日本唯一の地上戦と多くの集団自決があったため、沖縄県護国神社の祭神の柱数は17万柱を超えていて日本一多い。

 

護国神社は日本全国の都道府県にあるが、

地上戦のあった沖縄県と、

原爆投下のあった広島県は、

殉死した兵士だけではなく、日本の勝利の為に尽くした一般人なども祀られている。

 

2018年、公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会から奉納された「あゝ特攻勇士の像」。

 

沖縄県護国神社(那覇)

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