浦添 – 浦添ようどれ

浦添ようどれ

琉球国中山王陵「浦添ようどれ」

浦添ようどれは浦添城跡にある王の墓で13世紀に英祖王によって建造されたと言われていて、別名を「極楽陵」という。崖にある横穴を石積みで塞いで墓室にした墓。2つある墓室の向かって右側を西室と呼び英祖王が眠っているとされ、左側が東室で尚寧王とその一族が眠っているとされている。ようどれとは琉球の言葉で「夕凪」のこと。浦添城跡の北側崖下に位置する。


 

琉球国中山王陵「浦添ようどれ」の解説文

開園時間:9:00~18:00

年中無休。

園内での飲食禁止。

 

琉球国中山王陵「浦添ようどれ」への入口階段

浦添ようどれは浦添八景のひとつに数えられている。

 

琉球王家の末裔、尚氏の尚裕氏の浦添ようどれ復元への業績を讃える碑文。

琉球王家の末裔、尚氏の尚裕氏の浦添ようどれ復元への業績を讃える碑文。

 

沖縄戦により天井部分と左の石積みがなくなった「暗しん御門」

沖縄戦により天井部分と左の石積みがなくなった「暗しん御門」。

 

昭和9年頃の暗しん御門

浦添ようどれへの通路、昭和9年頃の「暗しん御門」の写真

暗しん御門(くらしんうじょう)は、加工した岩盤と石積みでできたトンネル状の通路のことです。

薄暗くひんやりとしていて、地下通路をとおって「あの世」に行くような雰囲気でしたが、沖縄戦で天井の岩盤は崩れてしまいました。

…残念だ。

 

浦添ようどれ「二番庭」

浦添ようどれの「二番庭」と呼ばれる部分。

 

浦添ようどれ「一番庭」

浦添ようどれ「一番庭」。

 

琉球国中山王陵「浦添ようどれ」

手前が西室で英祖王。奥が東室で尚寧王とその一族が眠っている。

1759年に尚寧王王妃・阿応理屋恵(あおりやえ)の遺骨も浦添ようどれ東室に移設されている。

 

説明によれば、当時は風葬が行われていたようで、この浦添ようどれのある場所にあった崖のくぼみに英祖王の遺体を安置し、風化して白骨化したあと洗骨をし、金のシルクに包み壺に入れ、墓館に入れ、崖のくぼみを石積みで囲い玄室にして今の形になったそうだ。

風化させた白骨は、火葬にした骨のように縮まったりせず、そのままの大きさで残るという。

 

浦添ようどれ「二番庭」

墓室内部はもちろん非公開だが「浦添ようどれ館」で西室内部のレプリカが見れるという事で移動。

 

浦添ようどれ館

浦添城址公園内「浦添ようどれ館」title=

お昼にお弁当を食べた浦添ようどれ館に戻ってきた。

 

浦添城址公園内「浦添ようどれ館」入館料

開館時間:9:00~17:00。

休館日:月曜日、12/28~1/3。

入館料:大人100円、小人50円。※浦添市の小中学校性は無料。

 

浦添ようどれ西室の再現コーナー

浦添城址公園内 浦添ようどれ館「浦添ようどれ西室の再現コーナー」

浦添城址公園内 浦添ようどれ館「浦添ようどれ西室の再現コーナー」西室・英祖王領の石厨子

西室・英祖王領の石厨子。

 

浦添城址公園内 浦添ようどれ館「浦添ようどれ西室の再現コーナー」西室・英祖王領の内部の再現

西室・英祖王領の内部の再現。

 

浦添城址公園内 浦添ようどれ館「沖縄戦の出土品」

沖縄戦の出土品。

沖縄戦は高田高地での戦いの後、那覇のシュガーローフなどでも激しく繰り広げられ、日本軍司令部が首里を捨て摩文仁に移動し、そこで米軍に追い詰められた牛島軍司令官らが昭和45年6月23日に自決し、やっと組織的戦闘は終わりを迎えた…。

…なるほどね。

 

浦添城址公園内 浦添ようどれ館

一番初めの約2年半の旅をタイで終え、半年ほど神奈川に住み、沖縄に来た。

沖縄に来た頃の半年くらいは、毎週末北から南からドライブに出かけ、もう行った事がないんじゃないかくらい動き回った。

初めは沖縄も旅の途中のつもりだったが結構長く住み着いている。

そして観光立県沖縄で雑誌やインターネットの仕事をしていると、やはり取材関連の仕事も少なくなく、観光雑誌の取材、タウン誌の取材、沖縄観光サイトの取材、史跡のアーカイブ用の取材などなど、いろいろやってきたけど、やっぱり日本で唯一「地上戦」が行われた土地なので、特にこの浦添以南はあちらこちらに戦禍の跡が残っている。

華やかな琉球王朝ロマン、美しい自然、観光スポットなど綺麗なもんだけじゃないんだよね~。

でもまあ、今回のウォーキング・ツアーを振り返って、改めて沖縄の深さを感じた。

事あるごとに沖縄を書いてみるのもいいかもしれないな~。

 

浦添ようどれ(沖縄)地図