沖縄-浦添グスク-世界を旅するフォトエッセイ(旅行ブログ)

近年発見された高度な技術を使った石垣

この石垣を見て嘉数先生が熱弁を始める。

1187年に琉球国中山王になったとされる「舜天王」は資料がなく伝説だとした場合、実在したと確認される中山の王統は下記のようになる。

[舜天王統]
初代 舜天王 1187年~(伝説・参考までに)

[英祖王統]
初代 英祖王 1259年頃~
二代 大成王
三代 英慈王
四代 玉城王
五代 西威王 1349年迄

[察度王統]
初代 察度王 1350年~
二代 武寧王 1405年迄

現在確認されている歴史上、中国・明への朝貢は、中山後期の察度が1372年に初めて派遣したのだから、それまでに中国との交易はないはずなのに、この城壁は石垣の積み方が当時の琉球にはなかった最先端の技術であり、このような仕上げをするには鉄が必要なのだが、中国との交易無くして鉄がある訳がなく、またそのような技術を持った石匠いるわけはないのに、この城壁はそういった仕上げがされている。時代考証としておかしいのではないかというのだ。

さらに実際は英祖王の時代に琉球は一度統一され、その後また三山に分裂し、それを尚巴志が統一したのではないかという考えも話してくれた。

…なかなか興味深い。

ちなみに舜天は琉球王府の正史「中山世鑑」に登場し、源為朝の息子という伝説があり、本国に戻った為朝を牧港で母子で待った。…というお話もあるのだそう。

 

石垣の組み方、仕上げ方ひとつで時代考証が変わるなんて、すごいよね…。

ちなみに瓦がある城は、首里城、浦添城、勝連城だけだというから浦添城がいかにすごい城だったかが分かる。

 

浦添城の前の碑

首里尚家の第6代王、尚永が嫡男がないまま1588年に死去した事から、分家であった浦添按司家の尚寧に王位継承の好機が巡ってきた。

この「浦添城の前の碑」は尚寧が分家から首里尚家本家の首長に返り咲いた事や、浦添グスクと首里を結ぶ大規模な道路整備の事業の竣工の記念に1597年に建てられたものとの事。

 

 

だが、この碑も沖縄戦で破壊されたため、後の1999年に復元されたとある。

 

正殿跡?

この史跡の解説文にはタイトルに「正殿跡?」と書かれています。なんて書かれているかと言うと、

正殿跡?
 この遺構は、1998年に行った発掘調査でみつかったものです。縁石が置かれ、石が敷かれている様子を確認しました。
 その他にも石列や柱の跡とみられる穴などがみつかっています。これらの遺構は、ここに正殿があった事を示すものと考えられます。
 浦添城跡の北側は、沖縄戦後の採石で大きく削り取られたため、ほとんど残っていません。そのなかで残っているこの遺構は貴重です。

浦添市教育委員会

この正殿跡とされる縁石の後方は現在は数メートルほどしか平地がなく、その先は木々の生い茂る斜面になっている。もしここに豪奢な正殿が経っていたとしたら、かなり広範囲で石が切り取られたんだと考えられる。

 

東屋の柱に…。

小雨が降ったり、日差しが強くなったりで東屋の下へ。

すると嘉数先生がこの東屋について触れる。

東屋の柱に「琉米親善委員会寄贈 1965年8月」とある。

へ~、沖縄だとちょっとした広場や海辺にどこにでもあるような東屋だけど、ちゃんと歴史的な意味があるんだね~。

 

「正殿跡?」の前はこんな感じの高台の広場になっている。

 

写真の真ん中にあるプレートのところが「正殿跡?」。

 

 

沖縄戦・前田高地(ハクソー・リッジ)

この浦添城跡のある高台は戦時中「前田高地」と呼ばれていたそうです。

1945年4月、浦添市城間(米称:アイテム・ポケット)を制圧し陸上に拠点を確保した米軍は、城間~屋富祖~安波茶~仲間~前田と進軍してきた。

この前田高地(米称:ハクソー・リッジ)は日本軍にとっては首里の軍司令本部に米軍を近づけさせないための盾であり、米軍からするとこの前田高地を奪って日本軍の首里軍司令本部攻撃の前線基地としたい両軍にとって重要な拠点だった。

「ありったけの地獄を一つにまとめた」

と言われるほど激しい戦闘を繰り広げた前田高地での攻防は5月6日、米軍に完全に制圧され日本軍は撤退を余儀なくされた。

…なるほど。

 

この浦添城址の高台から、普天間飛行場がすぐそこに見ることができ、少し空が白ばむあたりに嘉手納飛行場からの米軍機の離発着を見ることができる。

 

ディーグガマ

もともと鍾乳洞が陥没してできた御嶽で、大きなデイゴの気があった洞穴(ガマ)という事から「ディーグガマ」という名前がついたそう。

浦添グスク内の拝所のひとつ。

 

 

浦和の塔

「ディーグガマ」の横に立つ「浦和の塔」。

ディーグガマの正面に浦和の塔の説明文が銅板に書かれていて、

浦和の塔

浦和の塔は、沖縄戦で散華した人々を祀る慰霊の塔です。1952年に市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立されたもので、納骨堂には浦添城跡を中心に市内各地で散華した軍人や民間人5,000人余柱が安置されており市では毎年十月には、慰霊祭を催し英霊を慰めています。

浦添市役所

と記されている。

嘉数先生の話では戦争当時、激戦地となったこの前田高地での多数の死者を一旦ディーグガマに無造作に放り込んでいたようだ。

のちにその惨状を憂いた人達が、鎮魂の為に「浦和の塔」を建てきちんと納骨したそうだ。

 

発掘調査の成果に基づき復元された城壁。

 

伊波普猷(いはふゆう)の墓

これも墓の入り口に伊波普猷の紹介文があったので書き出してみると、

伊波普猷(いはふゆう)の墓

伊波普猷は明治9年那覇に生まれました。沖縄尋常中学(首里高校の前身)を退学処分された後、本土に渡り三高(後の京都大学)から東京帝国大学に進んで言語学を修めました。東大在学中から、浦添が首里以前の古都であったことを最初に論じた「浦添考」など優れた論文を発表しています。

帰郷して県立図書館長となった伊波は、歴史研究のかたわら、琉球処分後の沖縄差別で自信を失った県民に自信と誇りを回復する啓蒙活動を行います。大正14年に再び上京しますが、戦争で米軍に占領された沖縄の行く末を案じつつ東京で亡くなりました。その後、伊波の研究にゆかりの深い浦添の地に墓が作られ、永遠の深い眠りについています。

浦添市教育委員会

と記されている。

伊波普猷はアイヌ語研究の言語民俗学者である金田一京助(のちに東大教授、国学院大學名誉教授)などと交流があったり、言語にとどまらず、多岐にわたる沖縄研究をした事で「沖縄学の父」と呼ばれているそうだ。

 

顕彰碑。

「彼ほど沖縄を識った人はいない 彼ほど沖縄を愛した人はいない 彼ほど沖縄を憂えた人はいない 彼は識ったが為に愛し愛したために憂えた 彼は学者であり愛郷者であり予言者でもあった」

と刻まれているそうだが…。

ちょっとわかんなかった…。

 




   
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