首里金城町 – 重修金城橋碑文

首里金城町「重修金城橋碑文」

那覇市首里 重修金城橋碑文

首里金城町、重修金城橋碑文(ジュウシュウカナグスクバシヒブン)。琉球王国の王都・首里城と南部方面、を繋ぐ「真珠道(まだまみち)」の「金城町石畳道」を降り切ったところにある安里川に架かる「金城橋」の1809年の改修にあたり建てられた碑文。1945年の沖縄地上戦で金城橋とともに損壊したが、1985年、金城橋の再建と共に碑文も再建された。


 

那覇市首里 重修金城橋碑文

金城町石畳道を降り切った坂の下、その先に…

 

那覇市首里 重修金城橋碑文

金城橋があり、さらにその先は…

 

那覇市首里 重修金城橋碑文

「識名坂(シチナンダビラ)」と呼ばれた坂道。

琉球王国時代は琉球松の並木の石畳の坂道で、琉球王家の別邸「識名園」に通じていた。

この坂、上ってみるとなかなか長くて傾斜もきつい。

 

那覇市首里 重修金城橋碑文

金城町石畳道の通り向かい、金城橋の傍には、1810年に創建された「重修金城橋碑文(じゅうしゅうかなぐすくばしひぶん)」がある。

この碑文も先の沖縄戦で被害あい、戦後の1985年に移設再建されたものだ。

 

那覇市首里 重修金城橋碑文

“ 金城橋(カナグスクバシ)は、琉球王国時代、首里・識名台地の間を流れる金城川に架けられた橋である。橋の創建年は不明。1677年に木橋から石橋に建て替えられた(「金城橋碑文」建立)が、1809年の洪水により損壊。翌年元の位置から少し下流に移し再建され、橋の南側に「重修金城橋碑文」の碑が建立された。1945年の沖縄戦により橋も碑も破壊されたが、現在残っている碑の残欠は、1985年橋改修の際に、橋の北側に移設されたものである。
 識名平(シチナンダ)は、金城橋から識名に至る坂のことで、呼称は方音の「シチナノヒラ」が転訛して「シチナンダ」となり、さらに坂の意味を加え「シチナンダビラ」ともいう。かつて は松並木の続く石畳の坂道で、王家の別邸「識名園」に通じ、また、首里から島尻方面に至る幹線道路の一部でもあった。
 その他、この付近は、かつて金城川を遡って船の往来が あった頃、宮古の人々が、海上安全を祈願して川岸の洞くつに魚の形を刻んだという伝承から「魚崎原(イユサチバル)」という地名や、川に身を投げた夫婦の怨念が人魂となって、坂の上から川岸まで漂うという「識名平の遺念火(シチナンダヌイネンビー)」の伝承が残っている。”

 

那覇市首里 重修金城橋碑文

「首里那覇屏風図(部分)」。

金城橋と識名平と識名園の位置関係が書かれている。

今でもこの道をまっすぐ行けば識名園にたどり着ける。

なお、琉球八社のひとつ、識名宮は識名平と識名園の中間地点にある。

 

那覇市首里 重修金城橋碑文

那覇市首里 重修金城橋碑文

橋にも歴史ありなんだね…。

 

重修金城橋碑文(沖縄)